第二話

ナニワ工機の確立 昭和23年〜30

ジンギスカン鍋野外パーティーで工場完成を祝ったものの、事業の見通しは暗澹としていた。資本金は500万円に増資されたが、瞬く間に債務超過と相成った。

 

昭和23年の5月には前年10月より建造に着手していたナニワ工機の最初の電車が竣工した。阪急宝塚線の550型である。廃車後、第1号を記念して、長らくアルナ工機車両工場の橋を渡って対岸にあった本社の中庭に保存されていた(1980年ごろは雑物置き場になっていた)。アルナ工機、解散後は アルナ輸送機用品=旧アルナ工機 養老工場に保存されている。

保存車両550系 後方は建材営業部1980年ごろの写真

以降、神戸線700型(後の800型)等を建造し、阪急系以外にも伊予鉄道に3両納品する等、鉄道車輌メーカーとしての基礎を固める。

810系昭和25年建造

しかし、ドッジライン(経済引き締め政策)により、車輌の受注が激減した。ナニワ工機は設立当初、阪急からの受注を年間30ないし40両と見込み、これを5年程度継続することによって会社の基礎を作ることを見込んでいた。しかし、実際には年間20両以下の建造にとどまり忽ち債務超過に陥った。

 

 

昭和24年ドッジラインの計画実施は多くの会社倒産、或いは企業の大幅な合理化、整理を余儀なくされた。車輌産業も例にもれず、汽車会社は岡山工場の閉鎖等、軒並み人員整理の嵐が吹いた。 ナニワ工機も例外ではなく、仕事量が減少し、昭和25年は新規採用がなかった。

 

当時の鉄道車両会社の規模を示す資料として昭和26年度の労働組合員数(車輛労連)を以下示しておきます。

日本車両(名古屋)3700名  日本車両(東京)1400

東芝車両 900名  日本エアブレーキ 635

東急横浜製作所500名 近畿車輛 850

宇都宮車輛 850名 汽車会社(東京)1000

汽車会社(大阪)1637名 新潟鉄工 700

広瀬車輛 157名 ナニワ工機 120

大阪堺市にあった広瀬車両は経営危機が伝えられていたが、274月に平均3万円の退職金と引き換えにあっけなく解散した。車輛労連傘下の組合が広瀬車輛支援に駆けつけたが、最早手遅れで、後発中小メーカーのナニワ工機にとって、そのショックは大きかった。同じ堺市にあった老舗の木南車輌製造も倒産している。

ナニワ工機が生き残れたのは、技術力と親方阪急の看板で融資が受けられたからに他ならない。 

さて、25年以降は一般車輌メーカーとして日本国有鉄道をはじめとして阪急以外にも受注活動に努めることとなった。同年には初めて路面電車(京都市電)を建造、年末には軽金属を積極的に使用した車輌を業界に先駆けた建造をはじめ、26年には初めて日本国有鉄道に貨車を納入した(先行他社が数100両単位の貨客車を割り当てられたのに対して僅かにワム10両と聞く)。27年には軽金属材料使用の経験を生かし、京都市向けに軽金属車体のトロリーバスを建造している。

同年には東京方面の受注拡大のため出張所を設け、東京都交通局、東武鉄道等の長きにわたる取引が開始される。

28年に入り、前年より開発研究を行っていた車両用アルミサッシの商品化に我が国で初めて成功し東京都交通局の都電に初めてアルミサッシを納入する。この画期的なフラッシュバット溶接を日本で初めて採用した「NK式アルミ窓」は国鉄をはじめ鉄道各社に採用され、独占的なシェアを獲得していくこととなる。

 

 昭和29年頃から早川電気(現シャープ)のテレビケースの焼付塗装を受注し、5年間にわたって生産された、昭和34年の日産は400ケースを記録する。一時は売上高の10%を占めた。 この年、ナニワ工機の技術力の高さを示す異例の軽量電車 阪急1000系が完成する。独自開発の準張殻構造の軽量車体は阪急のみならず奈良電鉄(現 近鉄)、栗原電鉄等の中小私鉄の採用を見、他社を含め車体軽量化の嚆矢となる。

昭和29年 京阪神急行電鉄 案内ポスター

昭和29年は路面電車の技術開発で特筆すべき 東京都交通局向けP.C.Cカー 5501号車両が建造された。
三菱電機 住友金属 ナニワ工機3社合作でMSN車とも呼ばれる。以降の路面電車に大きな影響をもたらした。







第一話
 最初にアルナ(ナニワ)工機の設立前夜の話から・・・・
のちに社長となった日比憲一氏は戦中 満洲から引き揚げ、阪急創始者 小林一三氏の縁故で終戦まで 東洋製罐で航空機の製造工場の管理をしていたらしい。
 戦後、荒廃したなかで鉄道車両の復旧が肝要との思いを抱くようになった。
さらに、満洲から引き揚げてきた旧知の友とともに小林一三に具申し鉄道車両工場の立ち上げが
開始された。 ただし当初はアルナ(ナニワ)工機の設立ではなく 売りに出ていた2から3社の買収
を想定しての動きであったようである。その内の1社は名門の田中車両(現 近畿車両)であったと思われる。しかし、候補の車両メーカーは疲弊が尋常ではなく、小林一三の支援の下、自ら車両メーカーを立ち上げるに至った。

昭和225月、実業家 小林一三氏(阪急創始者)、太田垣志郎(元関西電力社長)の支援の下、日比憲一氏(元アルナ工機 専務―社長―会長)を中心に満州、朝鮮から引き揚げてきた車輌技術者と、一部 川崎系の技術者が参集、資本金18万円にてナニワ工機株式会社は設立された。

 

当時、鉄道車輌は極端に不足しており、京阪神急行電鉄(現 阪急電鉄)も例外ではなかった。空襲による被害の戦災車、老朽車、事故車、が数多く、終戦直後の稼働車率は4割に満たない状況にあった。

打ち合わせ中の小林一三と日比憲一氏

昭和225月 兵庫県尼崎市、現在の住金機工西側にあった庄下川の木造の橋のたもとに「京阪神急行電鉄ナニワ車輌工場」と「ナニワ工機」の看板が掲げられた。この場所は旧住友プロペラの工場跡であり、廃工場を借りて、人工甘味料を使ったズルチン汁粉を製造する工場等が操業していた。
橋のたもとに掲げられた看板

この北側には住友プロペラ第3工場があり、飛行機のプロペラの残骸が放置された焼け跡にナニワ工機の工場建設が始まった。日比憲一氏は当時のことを

「当時の動揺の激しい世相に抗して、仕事本位、技術本位で正直に働く者による、働く者のための車両工場が計画され、京阪神急行の援助と新扶桑金属工業の支援によって出来上がったのがこの会社である。私たちの会社は規模こそ小さいが、拾い仕事をやる町工場とは違って、日本の総合工業の最高水準をゆく客電車を専門につくるのであります。」 と述べています。

突貫工事中の車両工場 

工場は突貫工事で同年冬に一応の完成をみるが、バラックと言っても過言ではなかった。 工作機械も戦前戦中に酷使された物や、焼け跡から拾得した物もあったという。


第一話おわり

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アルナ工機(ナニワ工機)の軌跡